ごあいさつ
内藤病院院長 内藤 誠二
皆さんの中で、京王新線も元は京王線であったこと、さらに、京王線が新宿から初台、幡ヶ谷と地上を走っていたことを覚えている方はどのくらいらっしゃるでしょうか?
私が小学生だった頃まで京王線は地上を走っていて、旧代々木郵便局(今はライオンズマンション)の前には踏切がありました。このあたり一帯にマンションが増え始めたのは私が医者になった頃だったと思います。緑に囲まれた閑静な邸宅が次々と高層マンションに建て替えられ、風景を一変させて行きました。
初代院長の内藤豊助が昭和5年(1930年)にこの地で診療所を始めたときには、周囲に畑がいっぱいあって、豊助も土地を借りて畑仕事をしたそうです。人力車で往診をしていた時代です。二代目院長の内藤徹郎がまだ子供だった頃には、今のスポーツセンターのあたりには狸が出ました。終戦直後、徹郎が千葉大学からの帰りに新宿に降り立つと、あたり一面焼け野原で、そこから初台の焼け残った家屋が見えたそうです。
診療所から「内藤病院」になったのは昭和15(1940)年のこと(当院の廊下には当時の様子が分かる写真などが展示されています)。以来70年に亘り、「かかりつけ医」、「救急医療機関」、「急性期医療を提供する病院」として、初台を中心とした地域に暮らす方々と一緒に歩んできました。
私も初台で生まれ育ち、隣接する幡ヶ谷、代々木、新宿などで青春を過ごしました。そのころは、都市化にともなって変貌をとげる街並みと、進歩・成長をとげる戦後日本の医療とが重なる時代でもありました。
街並みと医療の姿かたちは、これからも変化していくことでしょう。しかし、地域に密着した民間病院が果たすべき役割と責任は、今後も変わることなく求められると確信します。
内藤病院は、医療の質、安全、患者さま満足、連携、情報提供などの面で進化しながら、与えられた役割と責任を果たし続けたいと考えています。